研究所紀要
吉田松陰研究所は、明治維新の原動力となった多くの人材を育てた教育者である吉田松陰に関する調査・研究を行い、その成果を提供することにより、地域の発展に寄与することを目的として、平成30年(2018)、至誠館大学内に設置しました。
吉田松陰研究所紀要 松下村塾と明治維新
内容 | 吉田松陰研究所開設記念 至誠館大学公開講座「松下村塾と明治維新」の講演録(平成30年10月21日開催) 「私と松下村塾研究」海原徹 「吉田松陰の海外認識と工学教育論」三宅紹宣 「現代に生きる松陰先生-反薩長史観・誤解を超えて」関厚夫 「松下村塾の学びの実践-伊藤博文の場合」瀧井一博 「早すぎた思想家:吉田松陰とその時代」桐原健真 |
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発行部数 | 500部(発行日 2019年12月20日) |
贈呈先 | 萩市内高等学校・中学校 18校 山口県内市町立図書館、大学図書館、博物館・資料館など約100施設 |
販売価格 | 1,000円(税込) |
講演の要旨(抜粋)
講演1 海原徹「私と松下村塾研究」
松下村塾の優れている点、その教育の特色や長所について、何よりも強調すべきは、そこで教育の自由、教える自由と学ぶ自由がほぼ完璧な形で保障されていたということでしょう。教師として松陰は、どこからも、何者にも妨害されず、自由に教えることができました。一方、塾生たちもまた、自由に出入りし、何をどう学ぶか、各人が一人一人決めています。
要するに、教育の自由が、言葉の厳密な意味で100パーセント保障されていた。村塾とはそういう教育の場であったのです。現在の我々の学校や教育に最も欠落した、しかし、一番大切なものではないでしょうか。これが長年、村塾研究に携わってきた私の得た答え、結論のようなものです。(4~5ページ)
講演2 三宅紹宣「吉田松陰の海外認識と工学教育論」
立派な『吉田松陰全集』があるんですが、そこに所収されてない、入ってない史料が実はありまして、それは主に、松陰が海外のことを勉強した関係の史料です。それが入ってないっていうことが、やはり松陰を研究するに当たって全体像がまだ紹介されないままで研究されている。そこに、問題があるんではなかろうかということを申し上げたい。
松陰が海外に関して非常によく勉強しておったと、その前提が抜けてしまっています。その前提を抜かして、松陰の攘夷論は海外のことを知らない、非常に無謀な論であるというふうな論に導く人もいます。そこが、やはりこれからは見直していかなければいけないだろうと思っております。(6ページ)
松陰の工学教育論ですが、これを聞いても、ほとんどの人は驚いて受け入れないだろうというふうに、本人も懸念しています。事実、すぐには受け入れられることはなかったわけです。ただし、これは明治になって工学教育は、大学の中に一つの学部として位置づけられる、そういう時代がやってくるわけです。それを切り開いていくのは、実は松下村塾で育った伊藤博文とか、それと交流して常にいろんな情報を交換しておった山尾庸三ですね、そういった人たちによって成し遂げられていくことになるわけです。そういった意味で言えば、松陰のこの問題提起は、実は門人たちによって達成されていったということができるかと思います。
そういったことがさらには日本産業革命につながっていくわけです。まさに松下村塾が産業革命に貢献した、あるいはその遺産として非常に意味があるというのは、こういった論から評価できるのではなかろうかというふうに思っております。(14ページ)
講演3 関厚夫「現代に生きる松陰先生」
近年の松陰先生批判は『吉田松陰全集』に目を通さないばかりか、先生の生涯、さらには幕末維新史解釈やその現代との比較についても、「つまみ食い」あるいは勉強不足や思い込みのゆえに史実を無視して展開される傾向が強いと言えます。これは「素人作家」のたぐいだけではなく、残念ながら名の知れた評論家や歴史家の方々の中にも見受けられます。(15ページ)
司馬遼太郎さんの松陰先生観を概観してまいりました。まず、松陰先生のことは少年時代に誤解をしていたものの戦後、作家となり、40歳前後でしょうか、『吉田松陰全集』をひもといたことから松陰先生に対する評価が一変し、その敬愛の念は最晩年まで年月を経るにしたがって強くなっていったと言えると思います。(21ページ)
講演4 瀧井一博「松下村塾の学びの実践」の要旨(抜粋)
伊藤博文は演説というものを重視した。国民に直接自分の言葉で、政治の理念というものを語りかけるということを重視した。それも、政治家の選挙公約のようにですね、自分が政権とったら鉄道敷きますとか、公共工事これだけ持ってきますとかですね、そういうふうなことではなくて、彼は国のありかたがどうあるべきか、政治というのはどうあるべきか、ということを国民に語り続けた、そういう政治家でありました。(30ページ)
伊藤は「如何なる人が政府に立っても、如何なる党派が政権を把っても、政治となった以上は眼中党派を措かず、公平に事を行い、民を見るに自党他党の区別をせず唯々民の事業、民の生活、国家の利害如何と云うことを見るのみでなければならぬ」と述べています。
伊藤にとって政党というのは、国民が自分たちの考え方を政権の中に流し込んでいける、そういうパイプであるべきであったわけです。(31ページ)
伊藤は松陰の思想内容というものではなくて、まさに松陰の教育の方法というものを受け継いでいった。例えば、飛(ひ)耳(じ)長目(ちょうもく)という松陰の有名な方法論がありますけれども、それをまさに伊藤は実践していたわけですね。彼は絶えず新しい知識を求めた。そして旅と読書を通じて人々と会って議論し、絶えず知識を刷新していく。そういったことを、伊藤は自分のポリシーとしておりました。これはまさに松陰から学んだことだと言えます。(33ページ)
講演5 桐原健真「早すぎた思想家」
こうした松陰の自他認識の転回を「松陰三戸」と呼んでおります。地名に戸のつく3つの場所で、彼がその視野を広げていったということです。
一つ目が、平戸(1850)でありまして、彼はここで他者としての西洋認識を獲得し、翌年の江戸(1851)で問題意識を先鋭化させるとともに、煩悶を重ねていきました。そして、三つ目の水戸(1851末)で、ついに日本という自己像を獲得するのです。
ここで言う、「自他認識の転回」とは、「戦うべき他者」と「守るべき自己」の自覚でありまして、端的には、「藩」という垣を越えるものであり、象山が治国から平天下そして五世界へと転回した軌跡を、松陰はこの「三戸」を通して歩んでいったのであります。(38~39ページ)
吉田松陰研究所 紀要第2号
1.内容 | 論文 |
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野村興兒学長特別インタビュー |
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2.発行部数 | 500部(発行日 2020年12月20日) | |
3.贈呈先 | 萩市内高等学校・中学校 山口県内市町立図書館、博物館・資料館、全国の大学図書館など |
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4.販売価格 | 1,000円(税込) |
論文等の要旨(抜粋)
三宅紹宣「吉田松陰と坤輿図識」
本稿は、吉田松陰と「坤輿図識」のかかわりについて、松陰の書き込み等の学習の痕跡を復元することによって、その海外認識を解明しようとするものである。「坤輿図識」については、萩松陰神社に松陰手沢本が伝存している。そこには、おびただしい書き込みや、校訂の跡、朱点があり、松陰の熱心な研究ぶりがうかがえる。それを丹念にたどることによって、松陰の関心、そこから得たであろう海外認識など多様な情報を汲み上げてみたい。
この作業は、従来の松陰研究を克服していく上でも、重要な意義を有している。それは、これまでの松陰研究は、『吉田松陰全集』に依拠して行われてきたが、『全集』には、海外関係史料が収録されておらず、また解説にも触れられていないという問題がある。このため、松陰の海外認識に関する部分を欠落させたまま松陰研究が行われてきており、このことが、松陰の攘夷論は、海外のことを知らない無謀な考えだとするイメージを作る原因になっている。したがって、『全集』のみに依拠した研究を克服していく必要がある。本稿では、まず松陰と「坤輿図識」のかかわりを分析し、次に「坤輿図識」のアメリカ・イギリス・フランスの部分を翻刻して、そこに松陰がどのような書き込みをしているかを明らかにし、さらに、松陰の海外認識がその思想にどのような影響を与えているのかを具体的に検討したい。(70ページ)
海原徹「名字説に何を期待したのか」
名前に関する公的管理のない江戸時代の人びとは、いろんな名前を自由に称し、時と場合によってさまざまに使い分けた。士農工商の別を問わず、一般的な意味で名前は、もともと個々人のもの、いわば私的な所有物であり、自由に取捨選択することができた。(中略)
松陰先生との出会いで、その人と為りに深く感銘を受け、尊敬の念を抱くようになった人たちが、心機一転、何か新しい人生を切り拓こうとするとき、ぜひとも先生に名付け親になって欲しいと申し出た。名や字を新しくすることで、旧い生活のしがらみをいったんすべて断ち切り、今後の自らの生き方、人生に立ち向かう確たる指針を得たいという願いである。「名字説」はそれに応えるかたちで作成された。(中略)
(松陰は)落ち着いて机に向かっていたのはごく限られた期間でしかないが、それでも、前後2回の野山在獄中に8名、幽室に始まる村塾時代に12名、計20名の「名字説」を作っている。(1~2ページ)
小山良昌「松陰門下生:毛利敬親(1)」
藩主毛利敬親と吉田松陰の関係について、松陰満10歳の時、11歳年長の敬親公に親試(講義)を行ったことは、巷間よく周知されている。
藩主である敬親公を「松陰門下生」と表記することについて、違和感を覚える方もいるかもしれませんが、松陰の家族以外の者では、20年近い間松陰の門下生的な立場で親交を深めた人は敬親公ただ一人であった。最初の10年間は隔年ごとではあるが藩校明倫館や萩城内における「親試」において、山鹿流兵学を中心として孫子や中庸などの中国の古典や題を探して詩を賦すなど、藩主と家臣の関係を超えた濃密な子弟関係・信頼関係を醸成していた。
一方、敬親公への上申書を介しての親交は、嘉永5年(1852)松陰が士籍を除されて後、藩への上申は御法度であるにもかかわらず、翌年のペリー来航を機に兵学門下生の重臣益田弾正の手を介して、厳罰は承知の上、敬親公へ上申書「将及私言」を提出した。以後松陰が処刑される安政6年(1859)までの8年間、両名が直接対面することはなかったが、天朝への忠誠心を基に、対外政策、国防、西洋兵法の採用、藩主の在り方、藩吏の人事など多岐にわたって上申した。この松陰が血を吐く様な思いを込めた上申書は、敬親公の藩政上に大きな影響を与えたに違いない。
以上のことから、敬親公こそは松陰第一の門下生であったと称しても、過言ではないと思料する。
そこで、前半では吉田松陰の皇国信条、敬親公への親試、敬親公との親交、について記述し、後半はペリーの来航以後、激動の時代を迎えたなかで、上申書を介して敬親公へ種々アドバイスをしたが、やがて松陰の思考が尖鋭化すると、他の門下生と同様に敬親公との関係も疎遠となっていった。その両人の関係を松陰の上申書を介して明らかにする。(11ページ)
関厚夫「明治に結実した松下村塾の教育思想(学長インタビュー)」
筆者は昨年、勤務する産経新聞社のWeb版連載企画『歴史の転換点から』第3シリーズで、「大獄に死す 松陰と左内の『奇跡』」(全9回)という記事を執筆した。(中略)
今回、前記『歴史の転換点から』で収載した本学の野村興兒学長のロングインタビューを大幅加筆・修正した「拡大版」を通じて、以下の観点から「吉田松陰」を考えてみたい。
すなわち、主題は近代日本という「ものづくり大国」の礎をなす工学の発展にも寄与した松陰の教育、ならびにその教育思想を実現した工部大学校や工部省の軌跡とそれにまつわる人びと。また副論題としては、松陰と師・佐久間象山、そして研究者の間でも取り上げられることが絶えてなかった松陰と橋本左内がともにした「志」──近代国家を建設してゆくための教育観──である。(27ページ)
吉田松陰研究所 紀要第3号
1.内容 | 論文 |
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2.発行部数 | 500部(発行日 2021年12月20日) | |
3.贈呈先 | 萩市内高等学校・中学校 山口県内市町立図書館、博物館・資料館、全国の大学図書館など |
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4.販売価格 | 1,000円(税込) |
論文等の要旨(抜粋)
吉田松陰と「海国図志」 三宅紹宣
吉田松陰と「海国図志」のかかわりについては、古くは鮎沢信太郎氏による分析がある。また、最近では、阿川修三氏による吉田松陰と「海国図志」の受容を論じた研究がある。
しかし、これらの論考は、松陰自筆「海国図志」写本の存在と、そこへの松陰による書き込みによって判明する情報を知らないまま執筆されているので、隔靴掻痒の感がある。また、「海国図志」の松陰への影響については、『吉田松陰全集』に収録されている書簡や「野山獄読書記」しか考察の対象になっておらず、松陰手沢本「坤輿図識」(萩松陰神社蔵)への松陰による「海国図志」に依拠した書き込みに示されているような、関心度の高さについての分析は行われていない。
本稿は、それらを克服するため、まず松陰と「海国図志」のかかわりを松陰自筆写本の書き込み情報を踏まえて詳細に跡付け、次に「海国図志」の重要部分について、松陰自筆写本の原文を翻刻しつつその内容を分析し、そこから松陰がどのような影響を受けたのかについて解明したい。
(50ページ)
幾つもあった松下村塾-50年の軌跡 海原徹
萩に住む人びとを含め、一般にはあまり知られておらず、まして萩に初めてやって来る観光客には、まったく語られることのない事柄であるが、松下村塾と名づけられた学塾は、松陰先生の主宰したものだけでなく、実はその前後に、同じ名称を有する、つまり松下村塾のカンバンを掲げた学塾が、幾つもあった。
当然のことながら、そこで教鞭を執った教師も、松陰先生以外に何人もいた。明治25(1892)年の夏、閉塾になるまで、助教役も含めれば、総計10人近い教師が次々に登場した。維新後、かつて村塾で学んだことを自慢し、松門を名乗る人びとが萩やその周辺に何百人といたにもかかわらず、その多くが松陰先生に学んだことがない、それどころか一面識もなかったのは、こうした事実と無関係ではない。
松陰神社に現存する松下村塾を見直し、いっそう味わい深く知るために、村塾の成立から終焉に至る計50年の歩みを、もう一度振り返ってみよう。
(1ページ)
大獄に死す 松陰と佐内の「奇跡」前編(7回) 関厚夫
産経新聞社の朝刊に連載している『転換点を読む 日本史人物録』で令和2年11月から翌年4月まで掲載された「大獄に死す 松陰と左内の『奇跡』」シリーズは最初、弊紙Webサイト「産経ニュース」の連載企画記事『歴史の転換点から』で、新型コロナウイルス禍前にあたる令和元年秋に掲載された。それを、コロナ禍のなか、紙面用に大幅に加筆・修正をほどこしたのが本稿である。
本稿はシリーズであると同時に、1回1回が現代と吉田松陰や橋本左内の時代をつなぐ読み物として独立するよう心がけた。回が替わるごとに、執筆された当時の息遣いをも伝えようとする新たな、別の記事に接するつもりで読み進めていただければ幸いである。
(13ページ)
松陰門下生:毛利敬親(2) 小山良昌
吉田松陰と門下生藩主毛利敬親の関係は、ただ単に藩主と藩士の範疇や年齢差を超え、兵学の師範と弟子に近い関係にあった。また、松陰は国内外の最新情報にも精通しており、その博識ぶりについて敬親公は松陰を尊敬し、かつ松陰の指導を尊重していた。一方の松陰は何事に対しても真摯に取り組み、特に敬親公に対しては至誠を尽くして真摯に対応していた。
思うに幕末の諸大名の中で、この藩主敬親と松陰と同様に濃密な関係を持った大名が居ただろうか。松陰が藩に許可なく旅に出て、結果的には出奔の廉により浪人の身になった際、敬親が思わず口にした「国の宝を失った」の言葉が、両者の関係を端的に表している。
この軍師松陰と敬親公の師弟関係は、歴史的にも重要な関係にあったと称しても過言ではないと思料する。
(29ページ)
吉田松陰研究所 紀要第4号
1.内容 | 論文 |
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寄稿 |
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2.発行部数 | 500部(発行日 2022年12月20日) | |
3.贈呈先 | 萩市内高等学校・中学校 山口県内市町立図書館、博物館・資料館、全国の大学図書館など |
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4.販売価格 | 1,000円(税込) |
論文等の要旨(抜粋)
吉田松陰の教育論 三宅紹宣
吉田松陰の教育論については、「松下村塾記」をその教育理想を掲げたものとして高く評価することが、つとに定着している。「松下村塾記」では、「学は、人たる所以を学ぶなり」という教育理念を述べるとともに、三科六等のカリキュラムを計画している。しかし一方で、松陰は、「諸生に示す」において、規則を簡略にして、心の通い合う教育を目指すということを、塾生達に示している。どちらが松下村塾の実像なのであろうか。
ここでは、「諸生に示す」と「松下村塾記」を比較し、松陰の教育論とはどのようなものであったかを解明したい。その上で、「学校を議す 附作場」を分析することにより、松陰の工学教育論について触れ、その通底する教育論について総合的に明らかにしたい。
(63ページ)
松下村塾の経済 海原徹
嘉永5(1852)年12月9日、前年暮から翌5年4月まで、4ケ月余に及ぶ東北遊歴、藩許を得ない脱藩行の罪で藩籍を除かれ、浪人身分となった松陰に定収入は1文もなく、また2年10ケ月余主宰した村塾でも束脩・謝儀、あるいは月謝の類いの納入を当てにしなかったのだから、事実上、収入ゼロであったといって間違いではない。要するに、学舎を維持・運営するに必要な諸々の出費は、その都度、すべて先生、実は生家の親たちの負担であり、杉家の家計から捻出された。
いずれにせよ、長年に及ぶ先生側の負担の数々を考えれば、(中略)いわば無償制のチャリテイ・スク―ルのような学塾であったと説明するのも、あながち間違いだと決めつけるわけにはいかない。(中略)塾生側の負担は限りなく小さく、ほとんど無きに等しかったからである。
(1ページ)
大獄に死す-松陰と佐内の「奇跡」後編(6回) 関厚夫
身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂―。松陰が刑死の前日に書き上げた『留魂録』で、この和歌とならんで印象的なのが「今日、死を決するの安心(心の静謐)は四時(四季)の順(循)環に於て得る所あり」とはじまる一章だろう。以下、人の一生にはその長短にかかわらず、「春に種をまき、夏に苗を植え、秋に収穫し、冬に貯蔵する」という四季があり、数え年30の松陰の人生もまた、四季に彩られている―と続く。(中略)「出来不出来はわからぬが、実りはあった。もし継承してくれる同志がいるならばその種子は後世に受け継がれ、わが一生は豊年だったといえるだろう」。「四季の章」は要約、そう締めくくられている。
(24ページ)
吉田松陰の盟友:中谷正亮 小山良昌
中谷正亮と言えば、吉田松陰の門下生として松陰の信頼が厚い人物程度の認識は持っていた。山口市下竪小路の浄土宗古刹法界寺には、萩藩士であった中谷正亮父子の墓石がある。そして、「中谷正亮墓所」と表記した説明版が掲示されているが、(中略)その説明文の中で、最も関心を引いたのは、中谷正亮が「天保2年萩生まれ」の記事だった。萩で生まれた人物の墓所が、どうして山口の寺院にあるのだろうかとの疑問がわき、改めて中谷家遠祖の出自や居住地などについて調査を行い、さらに吉田松陰と中谷正亮の関係を中心に彼の生涯について調べてみた。その結果、吉田松陰に関する出版物の大半は中谷正亮を松陰門下生として取り上げているが、本稿のタイトルは敢えて「吉田松陰の盟友」とし、松陰の飛耳長目策の最大の協力者でもあることから、サブタイトルには「松陰の飛耳長目策への協力」とした。
(63ページ)
九州遊学の旅路と伝習録との出会い 松本芳之
21歳の若き松陰にとって、九州遊学は、藩外で学ぶ最初の旅であり、「西遊日記」の冒頭で「発動の機は周遊の益なり」と述べるように、九州遊学で心を揺り動かされたであろう体験や経験を中心に、松陰の足跡を辿ってみたい。
九州遊学では、アヘン戦争を記録した「阿芙蓉彙聞」や海外事情や国防を記した「近時海国必読書」、魏源の「聖武記附録」など、多くの書籍を閲覧、抄録しており、新しい知識を積極的に摂取している。その中で、王陽明の「伝習録」について、「示弟立志説・訓蒙大意・教約を読みて、後巻を釈つること能ず」と書き記している。この三篇はいずれも、学問の心得、初等教育、道徳教育など、教育に関する内容を述べたものである。松陰は「伝習録」の何に関心を示したのであろうか。本稿では、この三篇について、その後の松陰の教育観と比較して考察したい。このことは、教育者松陰の思想をより深めることになると考える。
(48ページ)
吉田松陰研究所 紀要第5号
1.内容 | 講演 |
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論文 |
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史料紹介 |
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2.発行部数 | 500部(発行日 2023年12月20日) | |
3.贈呈先 | 萩市内高等学校・中学校 山口県内市町立図書館、博物館・資料館、全国の大学図書館など |
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4.販売価格 | 1,000円(税込) |
論文等の要旨(抜粋)
吉田松陰は、いかに、いかなる日本を発見したのか 桐原健真
吉田松陰(1830-1859)が、「日本」を発見した思想家であったのだということを主題としてお話したいと存じます。「日本を発見する」と申しましたが、この「発見」とは物理的に発見するということではありません。より正確には、「日本」という全体性――「日本」という一つのまとまり――を発見したということであり、ことばを言い換えれば帰属対象として「日本」を見出すということになります。
「日本が一つのまとまりとしてある。そんなのは当たり前ではないか」と思う方もいるでしょう。しかし徳川時代の日本は、「三百諸侯」などと言われるように、多くの国々、多くの藩がひしめき合っておりました。こうした状態を封建的分邦状態と申します。そのようにバラバラであったこの列島を「一つの日本」という全体として把握し、そこに自分が帰属しているのだという感覚は、徳川時代ではあまり一般的ではありませんでした。
19世紀中葉という時代において、帰属対象としての日本を新たな形で発見したのが松陰であり、彼がいかに、いかなる日本を発見したのかをみていきたいと存じます。こうした問題意識のもとで、松陰の思想形成をみて参ります。
(1ページ)
吉田松陰における「工学」教育論の形成と展開 道迫真吾
長州藩が軍事工業に試行錯誤している最中、松陰はその打開策を模索していた。その構想は、松陰が松下村塾を主宰していた安政5年(1858)6、7月頃に執筆したとされる「学校を論ず 附、作場」(中略)という意見書に示されている。しかし従来、松陰に関する研究は数多くあるものの、松陰と工業化との関係についてはほとんど論究されることがなかった。(中略)先行研究ではいずれにおいても「学校を論ず(議す)」を高く評価しているが、単独での史料紹介の域を出ておらず、松陰がどのような経緯をたどり、どのような問題意識を抱いてこの意見書を書いたのか、踏みこんだ考察はなされていないのである。そこで本稿では、上記の課題を克服すべく、まず、松陰自身が「工学」的知識をどの程度有していたか、それらの知識をどのように入手していたかなどを、時系列に沿って検討する。(中略)松陰をして「学校を論ず(議す)」を書かしめるに至った環境の変化にも注意深く目を向け(中略)松陰における「工学」教育論の形成と展開の過程を明らかにし、その歴史的意義について(中略)考察することにしたい。
(20ページ)
阿部家所蔵の吉田松陰自筆新出史料(前編) 樋口尚樹
平成25年(2013)から26年にかけて、萩市川島の阿部家に伝わる資史料(掛軸、屏風・額、陶磁器、漆器、古文書、古写真、染織類、民具類等)の調査、目録作成を行った。これらの史料のうち、古文書類の史料を整理していたところ、吉田松陰自筆のものと思われる史料が見出された。そこで、広島大学の三宅紹宣先生に実物を見ていただいたところ、79点について松陰自筆ものであることが判明した。なお、これらの資史料は、現在、萩博物館に寄託されている。
79点の史料のうち、昭和11年(1936)完結の定本版『吉田松陰全集』(岩波書店発行)に収載されているものは、10点である。この10点は、いずれも吉田松陰の書簡であるが、定本版『吉田松陰全集』には、その出典がいずれも「松陰先生遺著所載」と記されており、所蔵先が不明となっている。
上記10点の書簡以外の史料は、草稿(下書き)や断簡、メモ、破損したものが多く、庫三は敢えて『松陰先生遺著』に翻刻、収載しなかったと思われる。したがって、全79点の史料のうち、69点が定本版『吉田松陰全集』及び昭和49年(1974)完結の大衆版『吉田松陰全集』(大和書房発行)に未収載である。
(55ページ)
吉田松陰の西洋兵制志向 三宅紹宣
吉田松陰の原点は、兵学者として日本の主権国家としての独立を守ることであった。家学としての兵学は、山鹿流兵学であるが、一方で、実用を重んじる立場から、西洋兵制に着目し、それを尊重していく志向があった。
本稿では、吉田松陰の西洋兵制志向を跡付け、その到達点としての「西洋歩兵論」を詳細に検討して、その意義を解明し、松陰と西洋兵制とのかかわりを明らかにしたい。
(中略)分析した結果をまとめておくと、次のようである。
松陰は、嘉永6年(1853)6月、ペリー来航によって危機を深く実感し、来春アメリカ艦隊が再来の時、必戦となると予想し、その対策が急務であるとして、8月、「将及私言」・「急務条議」を長州藩に提出した。そこでは、対策のための西洋兵制の重要性が明瞭に述べられている。
安政元年(1854)冬の「幽囚録」では、伏見に大城を築き、そのもとに兵学校を設置する案を提示しているが、この兵学校は西洋兵学を講究するものであり、とりわけ原語による教育、留学経験者による最新の教育など本格的なものである。ここに松陰の西洋兵学志向を見ることができる。
安政5年(1858)9月25日の「西洋歩兵論」は、西洋歩兵の利点について、その優れていることを明確に述べており、西洋兵制志向の集大成ということができる。
以上のように、松陰の西洋兵学志向は一貫して跡付けることができよう。
(84ページ)